弥生人
弥生人(やよいじん)は弥生時代に日本列島に居住した人々。大きく、弥生時代に朝鮮半島とアジア大陸等から日本列島に渡来してきた「大陸系弥生人」、縄文人が直接新文化を受け入れた結果誕生した「縄文系弥生人」、および両者の混血である「混血系弥生人」とに分けられる。
概要
[編集]縄文人骨の顔立ちや体形は一定しており、あまり大きな時期差や地域差は認められないが、広義の弥生人骨は割合と多様であり、地域差や時期差が大きい。縄文人そのもののような弥生人や縄文人に似た弥生人(縄文系弥生人)、大陸側(朝鮮半島と中国吉林省近く)にいた人々と身体的特徴が似ている弥生人(渡来系弥生人)、縄文系と渡来系が混合したような弥生人(混血系弥生人)がいた[1]。
ミトコンドリアDNAハプログループやY染色体ハプログループの研究によって、日本人と朝鮮人と中国人のY染色体には違いがみられ、弥生時代開始以降に断続的に渡来人がやって来たものの、先住の縄文人とは完全に対立していたわけではなく、融和、混血していったものと考えられる[2]。また日本列島には縄文時代以前から各方面から様々な人たちが日本へ流入し、弥生人も複数の系統が存在していたと推定される。
起源
[編集]弥生時代は一般に2400年前ほどに開始したとされてきた。そもそも弥生時代とは、弥生土器が使われている時代という意味であったが、現在では水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。2003年、国立歴史民俗博物館の研究グループは、炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる[3][注釈 1]。しかし、現在では放射性炭素年代測定では、土器等に付着する塩分などの海産物による海洋リザーバー効果により年代が約400年古く推定されることが明らかになっており、再度年代についての論争は続いている[4]。なお、水稲には朝鮮半島から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。
一般には、弥生人は朝鮮半島、山東半島から水稲栽培を日本にもたらした集団と考えられてきた。崎谷満によれば、日本に水稲栽培をもたらしたのはY染色体ハプログループO1b2に属す集団である。O1b2系統は、オーストロアジア語族の民族に高頻度にみられるO1b1系統の姉妹系統であり、満州や朝鮮半島などの東アジア北東部に多く分布する。崎谷はO1b系統(O1b1/O1b2)はかつては長江文明の担い手であったが、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、朝鮮半島、日本列島へ渡ったと考えている[5]。 しかしながら、重要なのは長江流域や江南地方などの華南地域においてはO1b2系統はほとんど分布が確認されないため、弥生人の祖先が長江文明の担い手であったという説を疑問視しされている。たしかに百越は歴史的に実在したことは確実であり、もしO1b2が長江文明の担い手であるなら江流域や江南地方などの華南地域の住民はO1b2系統であるはずだが、O1b2系統はほとんど分布が確認されていない。O1b2は中国華南地域にはほとんど存在ぜず朝鮮半島に非常に多く見られていることから最近の研究では長江文明ではなく朝鮮半島から水稲栽培をもたらした担い手が弥生人であることが提唱されている。
土井ヶ浜遺跡の弥生人が北部モンゴロイドの特徴を持つことや、日本人にみられるミトコンドリアDNAハプログループやGm遺伝子が北方型であることなどから、弥生人の起源地を沿海州南部(ロシア)に求める見方もある。遺伝的にも東アジア北東部にはハプログループO1b2が比較的高頻度に確認され、弥生時代に広くみられる刻目突帯文土器と似たタイプの土器が沿海州南西部のシニ・ガイ文化にもみられる[6]。民族学からも、類似のルートをとった集団として、岡正雄は「父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)」[7][8]、鳥居龍蔵は「固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)」[9]を抽出している。
また、日本人の約20%に見られるO2系統も弥生人に含まれていたと想定されるが、O1b2とO2はルーツが異なると思われ、その渡来時期、ルートなどの詳細はまだまだ不明な点も多い。
言語学からは、朝鮮半島における無文土器文化の担い手が現代日本語の祖先となる日琉語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている[10][11][12][13][14]。 これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日琉語族の集団に置き換わっていったとしており、この過程で南方へ追いやられる形となった日琉語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。
なお、渡来した弥生人は単一民族ではなく複数の系統が存在するという説もある[7][15][16]。
特徴
[編集]頭蓋骨の計測値で渡来系弥生人に最も近いのは新石器時代の朝鮮半島の南部人、河南省、青銅器時代の江蘇東周・山東臨淄人であった[17]。
また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、歯のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも高い。しかしながら、こうした人骨資料のほとんどは、北部九州・山口県・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。つまり、最初に渡来系が展開したと考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。そのことから、水田稲作の先進地帯でも縄文人が水稲耕作を行ったのであり、絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる[18]。
一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが朝鮮半島と中国東北の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し[19]、縄文人とは違った人間が朝鮮半島や大陸からやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた[20]。その後の調査で、前述のように中国山東省の遺跡から発掘された人骨との類似も指摘されている。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた[21]。
佐原真は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が弥生人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている[22]。
弥生人の種類(九州)
[編集]九州の弥生人は、大陸から北部九州に渡来した「渡来系弥生人」、鹿児島県付近に住み極度な短頭型(絶壁型)の「南九州弥生人」、長崎県付近に住んでいた「西北九州弥生人」がある[23]。南九州弥生人と北西九州弥生人については、血統的に縄文人の子孫と考えられてきた[24]。近年の核ゲノム分析によって、西北九州弥生人については、渡来系弥生人との間で混血がかなり進んでいたことが示された[25]。
下戸
[編集]弥生人に関連する体質として、下戸が存在する。下戸遺伝子の持ち主は中国南部と日本に集中しており、水耕栽培の発祥と推測される中国南部での、水田農耕地帯特有の感染症に対する自然選択の結果ではないかとも推測されている[26]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 片山一道『骨が語る日本人の歴史』1126号、筑摩書房〈ちくま新書〉、2015年。ISBN 9784480068316。 NCID BB18552154 。
- ^ 溝口優司(国立科学博物館人類研究部長)『日本人の成り立ちについての3つの仮説(P173)』
- ^ 春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたが、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。(『歴博特別講演会配布資料弥生時代の開始年代-AMS年代測定法の現状と可能性-AMS年代測定法の現状と可能性 -』)。
- ^ 中村俊夫「14C年代の暦年代較正と海洋リザーバー効果 (第16回名古屋大学タンデトロン加速器質量分析計シンポジウム平成15(2003)年度報告)」『名古屋大学加速器質量分析計業績報告書』第15号、名古屋大学年代測定資料研究センター、2004年3月、103-112頁、doi:10.18999/sumrua.15.103、NAID 110007150892、2023年4月6日閲覧。
- ^ 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 : 日本人集団・日本語の成立史』勉誠出版、2009年。ISBN 9784585053941。 NCID BA90892356。
- ^ 福田正宏 (2003年5月17日). “ロシア極東新石器時代研究の新展開”. 2018年6月21日閲覧。
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- ^ 縄文人直系でなかった西北九州弥生人 ゲノム解析で判明 2019年7月23日
- ^ 九州地方における弥生人骨の地域的特性に関する人類学的研究 科学研究費助成事業データベース KAKEN 1999–2001年
- ^ 篠田謙一, 神澤秀明, 角田恒雄, 安達登「西北九州弥生人の遺伝的な特徴:―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』第127巻第1号、日本人類学会、2019年、25-43頁、doi:10.1537/asj.1904231、ISSN 1344-3992、NAID 130007668339。
- ^ 日本人は酒に弱くなるように“進化”…「下戸遺伝子」の研究者が語る“弱い方がいい理由” - FNN.jpプライムオンライン
参考文献
[編集]- 国立歴史民俗博物館『弥生時代の開始年代 : AMS年代測定法の現状と可能性 : 歴博特別講演会』国立歴史民俗博物館、2003年。 NCID BB27273592。
関連文献
[編集]- 藤尾慎一郎『弥生人はどこから来たのか-最新科学が解明する先史日本』吉川弘文館 歴史文化ライブラリー587、2024 ISBN 9784642059879